五戸町について

青森の県南地区にある五戸町は、倉石・五戸・上市川にかけ八甲田山の東に位置し豊富な水源と地層により古くから良質な農畜産物を生産し継承されています。 馬や牛、鶏などの畜産はもとより、稲作やりんご「紅玉」、長いも、にんにくなどが主に生産されています。平成16年に、倉石村を編入し人口約1万8千人の新しい五戸町となりました。

本町に人々が定住したのは、数々の遺跡の発見から5千年以上前の縄文時代までさかのぼると考えられている。文治5年(1189)、甲斐国南部三郎光行が、軍功によって糠部(今の青森県三八・上北地方など)の五郡を授けられたのがいわゆる南部氏の始まりであり、この糠部地方が軍馬の育成に適していることから、九つの戸(牧場)に分け、さらに、東西南北に分けた四門九戸の牧場制が敷かれ、ここから五戸の地名が誕生したといわれている。史書に残る最も古い記述では、寛元4年(1246)、鎌倉幕府の執権、北条時頼が左衛門尉平盛時に下した知行状に「陸奥国糠部五戸」という記述が見られる。

当時、この糠部地方は南部氏が統治していたにもかかわらず、平盛時を地頭の代職に任命していることは、南部氏には属さず、幕府直轄地であり、また、糠部五戸とは、一つの集落の名ではなく、田畑・牧野・郷を包含した広い地域名であって、永仁5年(1297)の五戸郷々の検注状(土地測量報告書)の五戸郷々に相当する地域(新郷・倉石・五戸・八戸市豊崎町・市川町といった戦前の1町7ケ村)と推測されている。慶長以後南部氏に属し、地方の産業、経済、文化の要衝として、南部藩独自の通制の五戸代官所が置かれ、五戸通りは三戸郡下13ケ村、北郡下(今の上北郡)15ケ村、合わせて28ケ村の司法、行政、警察権を統括し、藩政末期には1万4,170石を領していた。

明治22年4月、町村制施行により五戸村となり、大正4年11月に町制を施行して「五戸町」が誕生した。昭和30年7月五戸町、川内村及び浅田村が合併し新五戸町が誕生。さらに野沢村手倉橋、豊崎村豊間内の一部を編入。平成16年7月、倉石村を編入合併して現在に至っている。

古くから馬産地として知られ、米、りんご、野菜を基幹作物として葉たばこ、畜産等との複合経営による農業が基幹産業であるが、八戸地区新産業都市の指定を受けて以来、地蔵平工業団地に企業誘致を進め、農工併進の町として発展の一途をたどっている。